遠慮がちに台所の片隅で揺れていたモビールを
主人は自分の書斎に持って行ってしまいました。
学生時代、ヨット部の先輩からプレゼントされた
思い出のモビールだったのですが、その先輩に多少の
好意を抱いていたこともあって、強く異議の申し立ても
出来ないままに、所有権が移ってしまってから
もう数年になります。
舟も帆も、真白だったかつての面影はどこへやら
モビールのヨットは煙草にいぶされて使い古した
なめし皮のように変色し書棚を埋める難解な本の
背表紙と見事にマッチして、すっかり書斎の雰囲気に
馴染んでしまいました。大学の同僚がたまに訪ねて
来たりするとモビールを自慢する、子供みたいに弾んだ
主人の声が聞こえたりしてきます。
とり立てて言うほどの秘密も冒険もなく平穏に過ごしてきた私の心が
ささやかに波立つ思い出のモビールに “内緒にしておこうね” と
つぶやく、幸せな女の幸せな一日を弱い西日が飾ってくれているみたいです。
書斎のヨット
― 知らぬは亭主ばかり ―